トラピスト修道院

トラピスト修道院の正式名称

トラピストと呼ばれている修道会の正式名称は厳律シトー修道会です。 
1998年はシトー修道会発祥の地 フランス ブルゴーニュ地方シトーの地に修道院が創立されてちょうど九百年でした。                   
 シトー修道会の創立者は、聖ロベルト、聖アルベリコ、聖ステファノの三人です。         

シトー修道会の歴史とトラピスト修道会の成立

創設期

シトー修道会の三創立者の一人聖ロベルト(Saint Robert、1028〜1111)は1028年頃シャンパーニュ地方の貴族の家に生まれました。かの有名なクリューニー修道院の傘下にある修道院に入り若くして修道士になりました。クリューニー修道院は「聖ベネディクト(480 〜548)の修道院戒律(St. Benedict says in his Rule for Monks -510年)」を遵守するすぐれた修道院でしたが、修道士の生活はだんだんと贅沢、華美になる傾向が ありました。
1075年聖ロベルトはより厳格に「聖ベネディクトの修道院戒律」を遵守することを熱望し、ラングル教区のモレームに新修道院(l'Abbaye de Molesmes)を創立しました。聖ロベルト院長の聖徳、 人徳に引かれて多くの修道志願者が殺到し、物質的な寄付もたくさん集まり、いつしかモレーム 修道院も贅沢な生活を送るようになってしまいました。モレーム修道院創立二十年と経ずして、モレーム修道院も「聖ベネディクトの修道院戒律」遵守に関して修道士間の見解の相違が大きくなり内部分裂をおこしました。        
                     
1098年3月、聖ロベルト院長を先頭に二十余名の修道士はモレーム修道院を離れディジョン市近郊の人里離れたシトーと呼ばれていた森林地帯に厳格に「聖ベネディ クトの修道院戒律」を遵守する修道院(シトーCiteaux修道院)を創立しました。  
           
新創立修道院は間もなく予想もしなかった艱難に見舞われます。シトー修道院創立後一年もしないうちに、モレーム修道院に残留し聖ロベルト院長と意見を異にしたはずの修道士たちは、聖ロベルトのモレーム修道院帰還を強硬に主張しはじめました。なぜなら、聖ロベルトの存在があってこそモレーム修道院の評判が保たれていたことをモレーム修道院の修道士たちはやっと気づきました。
 聖ロベルト自身が進んで帰ってくる可能性はなかったので、彼等は教皇ウルバン二世に嘆願しました。聖ロベルトがやむなくモレーム修道院に院長として帰った後、シトー修道院の修道士たちは聖アルベリコ(?〜1109)を院長として選出しました。創立の翌年1099年のことでした。シトー修道院の修道士がそれまで着用していた黒色の修道服を白色に改めたのは聖アルベリコ院長時代からと伝えられています。
 そして中世ヨーロッパ史に名を残した聖ベルナルド(1090〜1153)が三十数名の仲間と共にシトー修道院の門をたたいたのもこの院長の時代でした。シトー修道院は多くの修道士志願者を引き付けたので、次から次へとシトー修道院と同じ修道理念の修道院をフランス各地に創立しました。 
 清貧の愛好は農耕、牧畜などの肉体労働による生計の維持によって特徴づけられ、また単純簡素な典礼祭儀と世間からの出離はシトー修道院改革の根本原理でした。 
短期間に数多くの修道院創立が続きました。聖アルベリコ院長の死後、後を継いだ第3代院長である聖ステファノ院長(1059〜1133)は発展しつづける修道院間の一致団結を守るように明確な要綱「愛の憲章」を編み出しました。各修道院は同じ修道理念を保持するために、各修道院は同じ典礼様式同じ日課、そして年に一度、各修道院長たちがシトー修道院に参集し総会を開催すること、定期的な修道院の視察などが定められました。総会制度や視察制度は当時としては画期的な発想でした。<修道会>という概念はこれ以前には、あいまいでしたがシトー修道院を核として発展した修道院の集合体............つまり<シトー修道会>として発展しました。    

発展と衰退

1151年にはシトー修道会修道院は333ケ所、修道士11,600人以上となりフランス国境をこえて全ヨーロッパに創立されました。
 しかし、14世紀以降、国際紛争、疫病の流行、治安の悪化のために定期的な総会、視察の実行がだんだん困難になってきました。ついにはシトー修道会は地域ごとにいくつかのグループに分かれてしまいました。
 特に修道規律の低下、修道院長任命などの修道院人事の国家の干渉、莫大な借金など悪要因はフランス革命直前には極みに達し修道会内部崩壊も始まっていましたが、反宗教的なフランス革命政府の修道院強制解散令によって決定的な打撃を受け、フランス国内からシトー修道会修道院は姿を消しました。
 宗教改革後プロテスタントの圏内になった地域ではシトー修道会修道院はほとんど消滅してしまいました。そしてカトリック信者が存在する国々でも啓蒙的な皇帝や国王の圧力によってシトー修道会修道院は他国の修道院と連絡することができなくなってしまいました。

 この時代に残ったあるシトー修道会修道院は、国家権力による修道院強制解散を免れるために、教育事業社会福祉事業、教会司牧などの外部事業に携わることを余儀なくされました。また当時の社会状況も修道者にそのような活動を期待し、また要請もしていました。この活動的なシトー修道会修道院のグループは現在、寛律シトー修道会と呼ばれている修道会の礎となりました。

トラピスト修道会の成立

この間、修道精神が全く頽廃したというわけではなく、改革の試みは幾度となく繰返されていました。フランス・ノルマンディー地方のトラップ修道院の院長ド・ランセ(1626〜1700)によって行われた改革は最も有名です。そしてこの修道院は極端に厳しい戒律遵守で知られるようになりました。

フランス革命終了後、革命中外国に亡命し放浪していたわずかのシトー修道会修道士はフランスに戻り廃虚となった修道院で修道生活を再開しました。トラップ修道院にも修道士たちが戻ってきました。
 あまりにも厳しすぎると思われたトラップ修道院の修道理念は当時のシトー修道会修道士たちに大きな反感と同時に一方では共感をよびおこしました。様々な紆余曲折と激論の末、厳格な規律を採用するこの修道院とそれに賛同した修道院のグループは独自の修道院集合体を形成し、1896年正式に<厳律シトー修道会>として教皇より認可されました。
 刷新発祥の地がトラップであったことから、厳律シトー会員を「トラピスト」とも呼ぶようになったのです。
 厳律運動に加わらなかった修道院はゆるやかな修道院連合体を形成し <寛律シトー修道会>(または 聖なるシトー修道会)と呼ばれるようになりました。また、どちらにも属さない修道院もあります。             

現在

現在、寛律シトー修道会は世界18ヶ国、約1,200名の修道士、厳律シトー修道会は35ヶ国約3000名の修道士がいるそうです。
 最後に、シトー修道会発祥の地シトーは長い間廃虚をさらしていましたが、1898年 再建され厳律シトー修道会の修道士が修道生活を再開しました。        
参考
大分トラピスト修道院 http://www.coara.or.jp/~trappist/index.html
O.C.S.O.Home Page http://www.ocso.org/ 
シトー修道院 http://www.citeaux-abbaye.com/

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