ギロチン Guillotine
La Guillotine
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Br.Huyghe
断頭台とも言う。
1789年、国民議会議員で医師のジョゼフ・イグナス・ギヨタンJoseph Ignace Guillotin(1738-1814)が、従来の死刑に比べ、方法が平等であり、迅速で苦痛が少ないことを理由に使用を主張した。このため、非常に不本意ながらも、彼の名にちなんでギロチンと呼ばれるようになった。

 もともと、ドイツ、イングランド、およびペルシャで鳥肉などを解体するのに、農場などで使われていた。それが、フランス革命時に処刑方法として取り入れられた。
ギヨタンGuillotin
(1738-1814)
 身分制のある国ならどこでもそうであるが、処刑の方法にも身分差はあった。フランスでは斬首刑が許されるのは特権階級のみで、庶民は車引きとか火刑とか、罪科によって違うが、とにかく残酷なものであった。
 それがあまりにも残酷なので、ルイ16世は拷問を廃止して、刑を平等にするように命じた。

 そして、ギヨタン博士(英語読みでギロチン)が、パリの処刑人シャルル・アンリ・サンソンCharles-Henri Sansonと彼の友人でピアノ(当時はハープシコード)作りの機械工でもあり製図工でもあるシュミットTobias Schmidt と共に、新しい処刑道具の開発をし、その最終的設計図を、1792年3月、国王の侍医に提出した。侍医はテュイルリー宮殿に事務室を持っており、そこでこの三人と打ち合わせをした。
 四人が図面を検討していると、扉が開き、当時テュイルリー宮殿に住んでいたルイ16世が現れた。
 国王は図面を丹念に見た。錠前作りが趣味で、機械物に強い彼の目が刃に行ったとき、「欠陥はここだ」と言った。「刃は三日月型ではなく、三角形で草刈鎌のように三角形になっていなければならない」。そして、ペンを取り、「草刈鎌状の刃」を持った器具の図面を書いた。

 それから間もなく、この器具の最終案は議会に提出され、「一瞬の内に処刑が済むので、罪人の肉体的苦痛はほとんどなく、まさに人道的なものである」ことを強調した。その後、動物実験などを繰り返し、1992年4月25日の午後3時、この装置による初めての処刑が行われた。

 なお、それから四ヶ月も経たないうちに、国王一家はタンプル塔に幽閉され、間もなく、ルイ16世(1793年1月21日)も妻マリー・アントワネット(1793年10月16日)も妹のエリザベス内親王も、国王が最終的に磨きをかけた器具で処刑されることになった。
完成した処刑台の名前は当初、ルイ16世の名をとって「ラ・ルイゼット」あるいは「ラ・ルイゾン」などと呼ばれていたが、フランス革命以降は「ギロチン」の名が定着した。
 ところで、ギヨタン博士は、フランス革命当時、処刑台が自分の名前で呼ばれていることにさんざん抗議したが受け入れられず、改名して、田舎に引きこもったという。

ベルギーにあるギロチン

フランダース伯の城にあるギロチン
ゲントにある「フランダース伯の城Het Gravensteen」は、フランドル伯アルザス家のフィリップが1180年に造った城塞であるが、その中には、中世の拷問器具と一緒にギロチンが展示されている。
 フランス革命中の1795年、ベルギーに居たフランス革命軍がオーストリアやプロイセン軍を破ると、ベルギーはフランスに併合された。その後のナポレオン時代までは、フランス領としてフランスの法律が適応されていた。

 ちなみにフランスでは、1981年9月死刑廃止法で廃止され(1939年最後の公開処刑、最後の処刑は1977年9月10日、それまでギロチンによる死刑が残っていたのも驚きです。)、ベルギーでは1996年6月に廃止された。
 なお、日本には絞首刑による死刑制度がある。

※参考:http://www.metaphor.dk/guillotine/ 
     :http://www5a.biglobe.ne.jp/~french/ フランス革命大解剖
     :http://www.gent.be/gent/historis/monument/gravenst.htm フランドル伯の城
      等

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