○ガリア戦争
紀元前1世紀、ユリウス・カエサル(Julius Caesar 英:ジュリアス・シーザー、BC100〜BC44)の『ガリア戦記』によると、全ガリアは三つの部分、「ケルト族」「ベルガエ族」「アクィタニア族」の居住地に分かれるとした。中でもベルガエ族はガリアで最も勇猛果敢な部族であると記しており、ケルト語で戦士を意味するベルガエ(Belgae)はベルギーの語源となった。
さて、紀元前58年、カエサルはガリア・キサルピナとガリア・トランサルピナ両属州の総督に任官した。ヘルウェティー族のローマ属州ガリア通過要求を拒否したことで、ヘルウェティー族との間で戦争状態になり制圧、またゲルマニアにも侵攻し、ガリア人を脅かしていたアリオウィストゥス率いるゲルマニア人のガリア進出を退けた。紀元前57年にベルガエと呼ばれるケルト部族が定住するベルギー地方へ遠征し、ベルギー地方は、カエサル率いるローマ軍によって征服された。紀元前55年には、海をこえてブリタンニアにも進出し、この遠征によりカエサルはガリア全土をローマ属州とした。
ローマ帝国の属州となったベルギー地方はローマ人からガリア・ベルギカ(Gallia
Belgica)と呼ばれ、ローマ人の優れた組織力によって国内整備が進み、農工業が発展する。道路が作られ、ライン河と北海に臨むブーローニュを結ぶルートにはいくつかの町が物資の中継地として発展していった。ルーヴェン、ブリュッセルなどである。
4世紀頃に徐々にキリスト教が低地地方にもたらされ始め、この地方は経済的にも精神的にも豊かな平和な時代であった。しかし、ローマ帝国の衰退とともに5世紀になると、ゲルマンのフランク族が侵入し、この地方を占領した。ローマ帝国はその結果北部を放棄し、南部へと後退をよぎなくされ、その結果ゲルマン語を話す人々の北部とラテン語を話す南部へと二分された。ベルギーがゲルマン系の北部とラテン系の南部と言語境界線によって二分されるルーツがここにある。
○アンビオリックスAmbiorix
ガリア・キサルピナとガリア・トランサルピナ両属州の総督であったユリウス・カエサル率いるローマ軍は、紀元前57年、ガリア・ベルギカ(ベルガエ人の居住地)への遠征し、ロウマの属州としていたが、紀元前54年頃からガリア諸部族の反抗が始まった。
紀元前54年、ガリア・ベルギカの地で、ケルトのエブロニEburones 族の王アンビオリックスAmbiorixはカエサル率いるローマ帝国軍をはじめて破り、ローマ帝国軍をてこずらせるが、ついにこの地は帝国によって支配された。
後に、「ベルガエ族はガリアで最も勇猛果敢な部族である」というカエサルの記述から、ベルガエ(Belgae)はベルギーの語源として、1789年のブラバント革命で成立した「ベルギー合衆国THE
UNITED STATES OF BELGIUM(1790年1月成立)」にその名が付けられ、1830年に独立した現在のベルギー王国(Kingdom
of Belgium)にもその名が引き継がれている。ベルガエ(Belgae、ラテン語)は、もともとベルギー人(The
Belgians)とは同一視されていなかったのが、19世紀のナショナリズムの高揚の中で同一視され、その中でもカエサルを破ったアンビオリックスAmbiorixは、ベルギー人統合のシンボルとしての位置づけを与えられている。
アンビオリックスの像は、1866年にリンブルグ州Tongeren(蘭) Tongres(仏)の町の中心マルクト広場に建てられ、町のシンボルのひとつとなっている。 |